親父の柿の木    part 1                  晩秋 

 

定年後親しくなった友人の一人が「3丁目の夕日」という映画の感想を送ってくれた。  

原作は劇画で時代は昭和33年。 下町の人達のさりげない生活をテーマとして映画で彼も昔

そばやのテレビでプロレスに夢中になり、町にはオート三輪が走る画面に良き時代が

よみがえったという。 彼も私も中学生の時代であった。

 

思えば東京オリンピックの開催までの昭和の30年代は、我々にとって青春時代の真っ盛りで

日本もめまぐるしく変化を遂げた時代であった。

生活が豊かでなくても家族の絆を常に感じるものがあり、ガキ大将のあとを追ってもいじめはしない

友達に囲まれ、学校には信念をもって生徒に手を上げられる先生もいた。

力道山対シャープ兄弟。 我慢の末のカラテチョップに「侍」が重なっていた。   

家庭で母は白い割烹着が普通であり、学校では女の子はブルマー姿がまぶしくて気になる人とのフオークダンスのめぐり合いに胸躍らせたこともあった。

歌謡曲では「有楽町で会いましょう」がはやり、裕次郎が兄貴で小百合が妹の年代であり映画も

夢中になって観ていたことを思い出す。

よく学びよく遊べ が素直に分かる時代であり、親の期待に反し受験に失敗したり、将来への進路を勝手に決めたり といろいろあったが自分なりに真面目に将来を考えていたと思っている。

 

親父の影響を強く受けたのもこの頃だった。

読売ジャイアンツが負けるたびに不機嫌になり、何度もテレビに物を投げたこともあるような人で

寡黙で口下手であるが情に厚く、おかげでなんども失敗をしたと母から聞かされている。

さらに頑固を絵に描いたような親父だったが、一人息子で長男である私には早く大人になって

ほしかったらしく、タバコも酒も中学生の頃から薦めるありさまで、母が困っていたのを覚えている。

 

そんな親父が植えた柿の木が今年もたわわに実をつけてくれた。

子供の頃、実を甘くするためには木をいじめることだ と聞きバットで幹をぶん殴ったことがある。

いじめる とは枝の剪定を怠らず給水を抑える事だと教えてくれたのも親父であった。

親父が植えた場所があまりに庭の真ん中にあるため、今まで何度も切ってしまおうかと思ったが

その都度 難を逃れ今では我が家のご神木として40センチの太さで鎮座している。

 

最近 小鳥が群れて柿の実をついばみはじめたので、そろそろ収穫の時期とみて柿取りをした。

私が落とす実を受けるため、赤いセーターを着て両手をいっぱい伸ばしている女房が

上から見ると田舎の子供のようにいつになく可愛らしくみえた秋の夕暮れであった。

 

小鳥の為に充分残しても、今年も親父の柿は豊作であった。

 

                                               

             親父の柿の木 Part Uへ           庭Topに戻る